たてもの探訪Ⅰ(乙訓2) 2026年07月19日公開
長岡京市粟生
◆れきし
寺伝によれば、建久9年(1198)に、法然の弟子・熊谷直実が、粟生野の地に御堂(念佛三昧院)を建てたのが草創(光明寺絵縁起)。『法然上人絵伝』には、嘉禄の法難(延暦寺による大谷廟堂破却)にさいし、法然の遺体を粟生に移して荼毘を行い、その跡に建てた堂舎を「今の光明寺これなり」としていますので(巻42第六段)、鎌倉時代末期における存在は確かです。また「光明寺」の寺号は、四条天皇(1232ー42)から下賜された勅額によるものとされています(光明寺絵縁起)。
西山善峯の三鈷寺に、嘉禄3年(1227)より法然の高弟・証空が住んだことから、光明寺は西山派の拠点の一つとなり、室町時代には香衣勅許寺院としての活動がうかがえます。応仁の乱で被災の後、永禄6年(1563)には正親町天皇から「法然上人の遺廟光明寺は浄土門根元の地と謂うべし」との綸旨を得ました(光明寺文書)。室町幕府から寺領の安堵をうけて再建が進められたものの、山崎の合戦でふたたび焼失。豊臣政権下の奉行から発給された安堵状や(光明寺文書)、援助を請う言上書(ポルトガル国立リスボン・エヴォラ屛風文書)から、復興へむけてのようすを知ることができます。
江戸時代初め、証空を派祖とする浄土宗西山流では、東山の禅林寺(永観堂)と西山の光明寺が、幕府から本山として寺格を認められました(両本山)。寛永16年(1639)に禅林寺から入寺した第31世本空弘元は、御影堂を建立。続く第32世倍山俊意は、法然廟所をはじめ、深心院・鐘楼・大方丈・小方丈・庫裏を建て、檀林を復興するなど、中興の祖として崇められています。倍山は堂舎の造営のほか、師の大江南楚から物心両面にわたる支援をうけて「光明寺縁起絵巻」3巻をまとめ、後々までの寺運の基礎を固めたことも特筆されます。
ところが、享保19年(1734)11月18日、客殿からの失火により御影堂以下一山のほとんどが焼失する大災禍に見舞われます。焼け残ったのは御廟・拝堂と鐘楼だけで、こののち明治期の参道整備に至るまでの150年にわたり、復興・再整備の大事業が続けられ、今日みられるような寺観の基礎をつくりあげたのです(光明寺近世造営年表.PDF)。
◆見どころ 主要堂舎8棟が重要文化財に
光明寺は、西山から延びる丘陵の尾根を中心とし、その両側の谷を含んで大伽藍を形成。尾根上には二段の平坦面をつくり、上段に本廟(明暦2年)・勢至堂(安政2年)・骨堂(18世紀中ごろ)、下段に御影堂(宝暦3年)・阿弥陀堂(寛政11年)・鐘楼(明暦3年)・経蔵(正徳2年)・観音堂(安永年間)の主要伽藍が建ちならんでいます。
南面の細長い谷は、釈迦堂(集会堂とも。元文3年~寛保元年)・勅使門(文久元年)・大書院(安政4年)・庫裏(昭和58年建替)からなる寺務の堂舎群。この中央に法然の荼毘所跡と鎮守(八幡社・熊野社)が祀られており、光明寺の根本空間でもあります。江戸時代までは、荼毘所に至る中門(薬医門)が光明寺の正門でしたが、現在の総門(高麗門、弘化2年)建立とともに、御影堂にまっすぐ至る表参道が整備されました(明治17年完成)。総門から主要伽藍へまっすぐ延びる表参道(石段)と、左に分かれて中門に至るもみじ参道(石畳)が、参詣者を法然上人遺廟へと誘い、他に異なる風格ある寺観を醸し出しています。
江戸時代の建造物すべては、平成3年(1991)に長岡京市の指定文化財となり、そして令和8年(2026)、そのうち8棟が、「近世浄土宗寺院建築の展開を知る上で貴重な堂舎群」として国の重要文化財に指定されました。(2025年10月24日答申、2026年1月15日官報掲示)。
さらに、旧檀林(僧侶養成機関)の遺構が保存されていることも、特筆すべき内容。現在でも庫裏の東、一段下がった方形の区画にその跡をとどめ、現存の学寮門・講堂・食堂(いずれも天保4年建築)は、光明寺の奥深い歴史と高い寺格を伝えているのです(大正8年に西山専門学寮→現在の西山短期大学)。
総門
もみじ参道と表参道
もみじ参道
中門
御影堂
御影堂
御廟廻り
阿弥陀堂
釈迦堂
釈迦堂勅使門と信楽庭(しんぎょうてい)
鐘楼
経堂
観音堂
檀林の講堂と食堂
檀林の高麗門
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